2011年3月31日木曜日

貢献-可能性の追求

自らの貢献を問うことは可能性を追求することである。

そう考えるならば、多くの仕事において優秀な成績とされているものの多くが、その膨大な可能性からすればあまりに貢献の小さなものであることが分かる。


                        『経営者の条件』より



ここにドラッカーが自身の最高傑作を尋ねられた時に「次回作だ」と答えた考え方の秘密があります。


自分の能力がもっと磨かれていて、もっと時間管理をうまくやっていればさらに大きな成果が上がったはずです。

その仕事を自分自身以上にうまくこなし、より大きな成果をあげたであろう人は何千人もいるはずです。

自分があげた成果に満足してしまうのではなく、

「本来、もっと大きな成果があがってもおかしくない。ビジネスパーソンとして自分の能力をもっと磨かなければならない。より一層集中して仕事をしなくてはならない。」

と戒める心が「次の仕事が最高傑作なのだ」という言葉を言わせるわけです。


                  


(浅沼 宏和)

視野を広くする-貢献という視点

貢献に焦点を合わせることによって、自らの狭い専門やスキルや部門ではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。

成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向ける。

自らの専門やスキルや部門と、組織全体の目的との関係について徹底的に考えざるを得なくなる。

‥その結果、仕事や仕事の仕方が大きく変わっていく。


                        『経営者の条件』より



成果というゴールから「やるべきこと」、つまり貢献を考えるようになります。

それは「自分がやりたいこと」「できそうなこと」から考えをスタートさせることと正反対のことになります。

成果、責任、貢献を中心に据えるということは広い視野で仕事を見ることと同義です。

またこの広い視点からモノを見ることができなければ必然的に大きな成果は上がらないことになります。

成果、責任、貢献を中心にしているかどうかが有能なビジネスパーソンであるかどうかの分かれ目です。


(浅沼 宏和)

貢献する-成果と責任との関係で

成果をあげるには自らの果たすべき貢献を考えなければならない。

‥組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に据える。


                      『経営者の条件』より



ドラッカーのマネジメントでは「成果」が目標です。

すると貢献とは成果に直接つながる行動のことを意味することになります。


つまり貢献とは成果から逆算した行動のことであり、その価値はあがった成果によって判定されることになります。


ビジネスパーソンは成果をあげることが必須であるため、貢献という行動を起こす責任が伴っていることになります。

これが 成果、貢献、責任 というドラッカー理論の主要概念の関係性です。


(浅沼 宏和

2011年3月28日月曜日

◇東京電力・本社のマネジメント不在と現場のリーダーシップ

週刊ダイヤモンド4月2日号は、震災問題一色です。その巻頭を飾ったのが東電問題です。

悠長な初動が呼んだ危機的事態 国主導で進む東電解体への序章


このブログでも東電のマネジメントの拙劣さについてはドラッカー理論との対比を通じて何度も検討してきました。

今回の記事にはこのブログとの重複する部分もありますが、まとめておきたいと思います。


ある政府関係者は東京電力の対応に怒りをあらわにする。

「2号機の燃料棒が露出したとき、東電側は『撤退したい』と伝えてきた。撤退したら終わりだった。絶対に止めなければならなかった。」

あの時点で撤退とは無責任極まりない。この政府関係者は事故の初動から東電の対応に不信感を抱いていた。‥‥

地震発生時に、すでに原子炉内を冷やすシステムは動かなくなっていました。

そこで東電はまず電源車を送り、電源復旧を図ろうとしました。しかし、接続部分が水没していたため、結果的に失敗したそうです。

すると1号機で水蒸気の発生で破裂の危険性が高まりました。本当はこの時点で水蒸気を外に逃がし圧力を下げる必要があったのです。


この水蒸気の排気について本社は非常に消極的だったそうです。

そこで現場責任者であった吉田昌朗所長が陣頭指揮によって排気を行おうとしたのですが、本社経由でしか現地に連絡できなかったため、この指示が遅れました。

翌日、菅総理がヘリで現地に飛び、「排気しろ」と指示を出したことで吉田所長の背中を押す結果となったのだそうです。

この間、丸一日の時間の空きがあり、廃棄は行われたものの水素が建屋に漏れ、水蒸気爆発に至りました。

この初動の一日の遅れは日本にとって、また世界にとっても取り返しのつかないものとなりました。

東電の現場には責任感の強いリーダーシップもある人材がいるようです。その活動を本社がつぶしているというのが現実のようです。


週刊ダイヤモンドの記者は、東電が会社内でことを済ませようとしていたと断定し、厳しく非難しています。

やはりこのブログでも指摘したように、2002年の事故隠しの発覚によって明らかになった東電の秘密主義、隠ぺい体質は温存されていたということであると思います。

その後も吉田所長のみごとなリーダーシップが発揮されているようで、


事態を好転させたのも本店ではなく現地の英断だった。‥‥

本店と現地は何時間も議論した。本店は『自衛隊の放水を止めてもらえ』とまでなった。だが吉田所長が『やる』と判断した。」

ぎりぎりの選択だったが、この工事は成功。現場でも本店でも拍手が起きた。

「本店がいろいろといっても吉田所長は『評論家はいらない』と取り合わなかった。彼がいなければ現場も本店もパニックだったろう。」


この「本店」とは本社のことです。踊る大捜査線の「本店=本庁」であったのと同じですね。

このブログで東電に厳しいことをいってきましたが、現場の方々の努力は本当に尊敬すべきことであると思います。

その成果を上層部が台無しにし続けていることには憤りを感じます。


(浅沼 宏和)

2011年3月26日土曜日

閑話休題-坂本光司教授『伸びる中小企業の条件』

法政大の坂本光司教授は「日本で一番大切にしたい会社」によって一気に全国区になりました。

私は6年前に坂本先生の編著である「キーワードで読む経営学」の中で経営学の歴史をまとめた部分を担当し、執筆しました。

あの執筆のおかげで経営学の歴史にはだいぶ強くなりました。坂本先生にはとても感謝しています。

先生は身長190cm以上はあり、学者とは思えないフットワークの良さがあるフィールドワーク中心のバイタリティあふれる研究者です。
顔つきのいかめしさと体格におされて一緒にお酒を飲んでいる時につい背筋が伸びてしまったことを思い出します。

坂本先生が社労士会のシンポジウムで伸びる中小企業の条件に語った内容が日経新聞に出ていたのでまとめておきたいと思います。



伸びる中小企業10カ条

① ある特定のマーケットに過度に依存しない

特定のマーケット・企業・商品への依存度が高いと、景気の影響をまともに受けてしまうということです。リスクの分散化を図る必要があるということです。

② 景気・流行を追わない

景気には波があり、流行は必ず廃れます。伸びる中小企業は本業を追うものです。

③ 成長の種まきを怠らない

人材確保・研究開発等は未来経費といった種類のものです。
未来経費には保証はないがやらなければ可能性はゼロということです。
低迷企業の圧倒的多数は成長の種まきをほとんどやっていないそうです。
坂本教授は未来経費を売上高の4%以上と考えているようです。

④ 自己資本比率を高める

坂本教授は売上高経常利益率と自己資本比率を重視しているようで、特に自己資本比率を強調しています。50%を最低目標としているようですが、これはなかなか厳しそうです。

⑤ 景気に左右されない自家商品を創造確保する

教授は「下請けは永遠にやる業態ではない」と提唱します。
12,13年でやめるべきであり、自家商品を扱うようになるべきであるといいます。
中小企業の場合、医療・介護・福祉分野など景気に左右されない商品が向いているといいます。

⑥ 敵を作らない

これは「競争見積もり」の対象となるような商品を作らないことだそうです。
いわゆるオンリーワン企業を目指そうという意味のことです。

⑦ 人本主義を貫く

社員、下請け、お客様、地域住民など会社にかかわるすべての人の幸せを考えることの意味です。
坂本理論の骨格です。

⑧ 好不況に関係なく人材を確保する

伸びる中小企業は不況期であっても人材採用を行います。人材の安定的採用を重視すべきということです。

⑨ 業績ではなく継続を重視する

リスクがあって利益率が10%のやり方よりも、リスクの少ない利益率5%のやり方を目指すべきだということです。
中長期の継続性の高い方を選ぶのが正しいということです。

⑩ 多角・多面・多重・多層人材を育成する

営業も生産もできる人材といった意味のようです。複合的な能力を持つ人材は「つぶしがきく」ということです。
中小企業はつぶしのきく人材をどれだけ揃えられるかが勝負です。



坂本先生はもともと静岡県では有名な先生でした。
圧倒的な中小企業の現場訪問によってその理論は支えられています。

個性が強い先生なのでセミナーを聞く経営者の側でも好き嫌いが分かれるようですが、良い企業が結果として上記の条件をそろえているという傾向はあるでしょう。


(浅沼 宏和)

2011年3月25日金曜日

時間管理の総括

時間管理のためには

①自由な時間を割り出す

②時間をまとめる

③まとめた時間がバラけるのを防ぐ


という3つの手順が必要という話をしました。


また、作業と仕事の違いから知識労働者は仕事に入る前には仕事の段取り(時間計画)ができている必要があること説明しました。


ドラッカーはこう述べています。


時間の管理は継続して行わなければならない。


これは毎日時間管理をするという意味合いもありますが、それ以上に形骸化した時間の使い方がないか定期的にチェックする必要があるという意味もあるのです。


継続的に時間の記録をとり、定期的に仕事の整理をしなければならない。

そして自由にできる仕事の量を考え、重要な仕事については締め切りを設定しなければならない。

                       「経営者の条件」より




期限を区切るというのはとても重要な手法であると思います。


「今月中旬」「一週間ぐらい」といったあいまいな表現はやめて、「23日の夕方までに」といった具体的な決め方をするべきでしょう。


大きな成果をあげている人は、緊急かつ重要な仕事とともに気の進まない仕事についても締め切りを設けたリストを作っている。

それらの締切日に遅れ始めると時間が再び奪われつつあることを知る。

時間は希少な資源である。時間を管理できなければ何も管理できない。

                           「経営者の条件」より


これを戒めの言葉にしたいと思います。

ちなみにドラッカーは100%ムダなく時間を使うことは不可能であるとも言っていますので、ホッとしますが。


(浅沼 宏和)

2011年3月24日木曜日

自由な時間の意味

ほとんどの人は、二次的な仕事を後回しにすることで自由な時間を作ろうとする。

しかし、そのようなアプローチではたいしたことはできない。

心の中で、また実際のスケジュール調整の中で、重要でない貢献度の低い仕事に依然として優先権を与えてしまう。

時間に対する新しい要求が出てくると、自由な時間や、そこでしようとしていた仕事のほうを犠牲にしてしまう。

数日あるいは数週間後には新しい危機や些事に食い荒らされて、せっかくの自由にできる時間は霧消している。


                             「経営者の条件」より

つまり仕事の順番に注目するだけでは時間管理ができないということです。

では、何をするべきか?



まずはじめに本当に自由な時間がどれだけあるかを計算しなければならない。

次に適当なまとまりの時間を確保しなければならない。

そして常に生産的でない仕事がこの確保済みの時間を蚕食してはいないかと目を光らせなければならない。


                    「経営者の条件」より



つまり、自由な時間の割り出し ②まとまった時間単位にする ③バラけるのを防ぐ ということです。

これはかなり自覚的な努力が必要です。

朝仕事を始めるときになって「さて、今日は何をしようかな?あれをしようかな?これをしようかな?」といった仕事ぶりは許されないということです。


仕事開始時には、今日はどれだけの雑務があり、自由な時間は何時間あるのか?それをどのように使い、それに対する成果・期待・目的は何かが明らかになっている必要があるということです。


すると前日の夜か当日の早朝にはこれらの時間計画が割り出されていなければならないわけです。

これが肉体労働者と知識労働者の違いです。

単なる作業であればひたすら設定された能率向上を目指せばよいわけです。しかし、仕事であれば時間管理を磨きあげてより大きな成果を目指さなければならないわけです。

私は仕事作業をこのように区分して考えています。


時間を徹底的に活用し、大きな成果をあげようとする人は仕事に入る前に段取り、つまり時間計画が立案されていなければならないわけです。


(浅沼宏和)

2011年3月23日水曜日

時間管理と環境整備

ドラッカーは時間の浪費要因としてシステムの欠陥先見性の欠如をあげています。

混乱が繰り返し起きる場合、それは予知できるものです。

ですから「予防するか事務的に処理できる日常の仕事としてルーティーン化しなければならない」というわけです。

「繰り返し起きる混乱はずさんさと怠慢の兆候である」とも述べています。ここから環境整備論がでてくるわけです。



良い工場は見た目に退屈である。混乱は予測され、対処の方法はルーティーン化されている。そのため劇的なことは何も起こらない。

よくマネジメントされた組織は、日常はむしろ退屈な組織である。そのような組織では真に劇的なことは昨日の尻拭いのためのから騒ぎではない。
それは明日をつくるための意思決定である。


というわけです。

環境整備の質が高い企業は業績も良いという「マーフィーの法則」的な一般認識がありますが、あながち間違いではないということです。


(浅沼宏和)

2011年3月22日火曜日

時間は普遍的制約条件

東電の社会的責任については一旦棚上げし、5つの成果能力を中心に考察を進めることにします。

議論が行きつ戻りつするかもしれませんがよろしくお願いします。


さて、時間というわかりやすい資源に注目することで、成果に直結する行動を増やそうとするのがドラッカーの基本思想です。

時間は、誰でもどんな組織でも平等に与えられています。ためておくこともできず、買い取ることもできません。ですから時間をうまく使うこと=大きな成果と定義できるわけです。

成果をあげた人は「時間をうまく使った人」以外の何者でもないわけです。

個人の成果はなかなか見えるようになりません。

ですが最終的な成果が上がっていない以上、なんらかの不適切な時間の使い方があると考えます。

それは時間の記録によって明らかにすることができるというのがドラッカーの意見です。

これは卓見ですが、どの程度のレベルで実行すべきかはなかなか難しいところであると思います。

私は、一日をせいぜい午前・午後の2つ、夜まで仕事があるようなら3つ程度に区切り、そこで何を行ったか(成果が上がったか)を一日の終わりに評価すればよいと思っています。

また、その日の夜、ないし翌朝に1日の仕事の計画を立て、目指すべき成果をはっきりさせます。

そして実行し、仕事の終わりに評価する。この単純な行為を繰り返していけばよいと思っています。

詳細にやろうとするとなかなか長続きしませんが、予定通りなら 7~8割の出来ならそれ以下なら× といったようにしるしをつけておきます。予定以上ならをつけます。この程度なら無理なく続けられます。

このような記録をつけておくと、不思議なもので自分でそれなりの成果を目指す行動が自然と取れるようになります。

私は最も初歩的なレベルの時間管理はこのようなものであるべきであると考えています。

これ以下となるとなかなか成果能力が高まらないことでしょう。


(浅沼 宏和)

2011年3月18日金曜日

◇米政府の援助打診を辞退した件について

yahooニュースに以下の記事がありました。

東京電力福島第一原子力発電所の事故を巡り、米政府が原子炉冷却に関する技術的な支援を申し入れたのに対し、日本政府が断っていたことを民主党幹部が17日明らかにした。


 この幹部によると、米政府の支援の打診は、11日に東日本巨大地震が発生し、福島第一原発の被害が判明した直後に行われた。
米側の支援申し入れは、原子炉の廃炉を前提にしたものだったため、日本政府や東京電力は冷却機能の回復は可能で、「米側の提案は時期尚早」などとして、提案を受け入れなかったとみられる。


 政府・与党内では、この段階で菅首相が米側の提案採用に踏み切っていれば、原発で爆発が発生し、高濃度の放射性物質が周辺に漏れるといった、現在の深刻な事態を回避できたとの指摘も出ている。



 福島第一原発の事故については、クリントン米国務長官が11日(米国時間)にホワイトハウスで開かれた会合で「日本の技術水準は高いが、冷却材が不足している。
在日米空軍を使って冷却材を空輸した」と発言し、その後、国務省が否定した経緯がある。
 
 
 
もし事実であれば論外な対応です。
 
ドラッカーは成果をあげる大前提として真摯さについて述べています。そして最善を尽くす姿勢について強調しています。
 
 
私は研修において「最善を尽くす」ことの意味を次のようなたとえでを使って説明してきました。
 
 
質問
 
身内が重度の脳外科手術を控えていたとする。
 
「神の手」と呼ばれる有名な脳外科医が執刀すれば助かる確率が高い。
 
だが、かかりつけの病院の医師のスキルはカリスマ医師に比べれば低い。
 
仮にかかりつけの医師の執刀によって患者が助からなかった場合、この医師の責任は問われないだろうか?
 
またどのような条件を満たしていればプロフェッショナルとして十分な職責を果たしたと言えるのだろうか?
 
 
この回答の基準が「最善を尽くす」「知りながら害をなすな」です。
 
まず、このかかりつけの医師があらゆる手だてを尽くしていたのか?ということです。
 
仮に自身のスキルでは成功の確率が低く、カリスマ医師にお願いすれば治癒する可能性が飛躍的に高まるのであれば、このカリスマ医師の執刀をセッティングするよう努力すべきであるということです。
 
諸事情からそれができず、この患者が頼りうる範囲内において自身の執刀が最も可能性が高いのであるという事情があって、この手術が正当化されうるということです。
 
これが「知りながら害をなすな」ということです。
 
 
また、実際の手術においても「これ以上ほんのわずかな付け加えもできないほどに手を尽くした」という確信を持てたかという基準です。
 
これが「最善を尽くす」ことの約束を果たしたかどうかの実質的基準です。
 
そしてこれは執刀者本人にしかわからないことですが、その時に「神々が見ている」という、自身の良心に尋ねてみて答えを出すということです。
 
 
この心構えのことを「真摯さ」とドラッカーは表現しています。
 
 
上記の記事が事実であるならば、政府と東電の対応は歴史的な大失態です。
 
加えてプロフェッショナルの倫理基準も満たしていません。
 
 
今週は延々と原子炉問題を扱っていますが、この件は日本の歴史上まれにみる影響を与えた事例ですので、予定を変更して一定の落ち着きを見せるまで、ドラッカーのマネジメント論との対欧関係も含めて検討し続けていきます。
 
 
 
(浅沼 宏和)

◇危機管理-情報開示とコミュニケーション

ドラッカーはコミュニケーションについて、知覚であり、期待であり、要求であるが情報ではないという有名な定義を行っています。

東電の情報開示にイライラ感が募る理由についてドラッカーに基づいて検討してみます。



1、コミュニケーションは知覚である

コミュニケーションは受けての知覚能力の範囲内でしか受けとめられないということです。東電は国民に向けての記者会見において原子力専門家に話すように語りかけました。

ドラッカーは、ソクラテスの「大工と話すときは大工の言葉を使え」という話をよく引用します。

東電の場合、「市民に話すときは市民の言葉を使え」ということであるとおもわれます。



2、コミュニケーションは期待である

受けては期待しているものだけを聞きます。今回の場合、「要するに安全なのか?」「いったい何をしてくれているのか?」ということです。

長々とした会見を通じて、この期待が満たされていないため、聞き手は腹を立てるわけです。



3、コミュニケーションは要求である

コミュニケーションは受け手に何かを要求します。つまりコミュニケーションの目的ということが問題となります。

この場合、「安心してもらいたい」ということであるはずです。さもなければ「危険であるから、かくかくしかじかのように行動してもらいたい」ということです。

東電の記者会見には、聞き手に何かを要求する話としてどのような組み立てにするべきかという視点がありません。

だから、いったい何を言いたいのかがわからない会見になってしまうわけです。



4、コミュニケーションは情報でない

ドラッカーは情報とコミュニケーションは相互に依存関係にあると述べています。

しかし、情報は論理の対象であるけれどコミュニケーションは知覚の対象という違いがあります。

情報は記号にすぎないため、受け手が記号の意味がわからなければ受け取られることはありません。


ドラッカーの次の言葉が印象的です。


たとえ情報が多くなっても、その質が良くなっても、コミュニケーションにかかわる問題は解決されない。コミュニケーション・ギャップも解消されない。

情報が多くなるほど、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になる。
情報が多くなるほど、コミュニケーション・ギャップは縮小するどころか、かえって拡大する。


つまり、情報の価値は情報量と反比例するということです。情報量が多い時ほどコミュニケーションが大切ということです。

東電の情報開示は大量の事実の羅列はあるがそれによって情報価値を低下させてしまっています。


(浅沼 宏和)

2011年3月17日木曜日

◇東京電力と社会的責任③

東北関東大震災による福島第一原発の事故への対応について海外からの批判が高まっています。

批判は東電のみならず日本政府の後手に回った対応についても行われています。

この事故については、東電のコンプライアンス問題に焦点を絞って検討してきました。
しかし、日本政府の責任も当然あります。

政府の問題についてはここでは省き、私企業としての東電に絞って考えてみたいと思います。

ドラッカーの社会的責任論について説明は次のようです。


社会的責任の問題は、企業、病院、大学にとって二つの領域において生じる

第一に、自らの活動が社会に対して与える影響から生じる。第二に、自らの活動とかかわりなく社会自体の問題から生じる。


第一が今回の東電の場合、第二は震災について積極的な支援を表明している数多くの企業の場合が当たります。東電は失策を犯し、第二の企業の多くは社会からの信頼がよりましたことでしょう。

今回の事故は不可抗力の部分があります。

放射能の危険を顧みずに現場で奮闘している方々については頭が下がります。

しかし、東電首脳部の対応のまずさは人災のレベルであると思います。

大まかに考えて現場、外部連携、情報開示に特に顕著な問題を感じます。


1、想定外の事態に対して現場における方針の明示が行われていない気配がある。

2、世界的規模でのリスクに対して、外部の専門家や諸機関との連携について積極的な動きが感じられない。(発電機の手配、放水車、ヘリコプターの要請など)

3、情報開示の不全。無意味に詳細な情報開示により実質的な情報価値を失わせている。


2002年の企業不祥事(原発事故隠し)以降、コンプライアンスの模範企業として自負していた割に実質が伴っていなかったということに尽きると思います。
 

前回の不祥事は次元の低いものでした、ところが事件発覚後、わずか1、2ヶ月後に発表された改善策は完璧なもので、私はそのギャップに驚いたことを覚えています。


それから10年近くたっても、本社レベルではあまり改善が行われていなかったといえると思います。


日本では伝統的に現場レベルの意識が高く、上のレベルに問題があるケースが多いという話があります。

かつて日本陸軍について外国の軍の幹部から、「日本では最も愚かな者が参謀肩章をつけている」ということを言われたりしました。

公的性格の強い組織ほどそうした色合いがあるのかもしれないと思う次第です。

ただし、これだけ拙劣な対応をする組織に対する政府のマネジメント能力にも疑問があるのは当然であることを付言しておきたいと思います。


知りながら害をなすな


今回の件はドラッカーが提示するプロフェッショナルの倫理基準をかみしめる大きな機会ととらえたいと思います。






(浅沼 宏和)

2011年3月16日水曜日

◇東京電力と社会的責任②

昨日に続き、東京電力の問題です。

今、炉心溶融の危機にある福島第一原発の2号炉に海水を注入中に信じられないミスがあったことがネットのニュースで流されました。


何度も何度も繰り返される東京電力の謝罪。絶対に安全であることが大前提の原子力発電で、信じられない人為的なミスで危機的状況が生じた。


 今回の“危機的事態”の原因は、作業員が見回りに出ている間に海水を注入するポンプの燃料が切れ、燃料棒がむき出しになった。‥‥


昨日、広報担当者に「当事者意識」が欠けていることを指摘しました。

上のニュースが事実であるとしたら、まさにありえないほど「日常的な」意識レベルでこの未曾有の困難に対処していたことになります。


家庭でてんぷら料理をしている最中に、その場を離れてはいけないというレベルのことは家庭の主婦のみならず、子供でもわかっていることです。

日本中がかたずをのんで見守っている作業の現場責任者が、まだ作業が終わっていないのにその場を離れる等という事態が平然と行われていたとは驚くべきことです。

このような重要な作業者が「見回り」と兼務で行われているという事実が東京電力の危機意識の低さの象徴であると思います。

おそらく「危険な現場」ということで、最少人数しか投入していないのでしょう。

しかし、ここをうまく乗り切らなければ今後100年以上にわたり悪しき影響を及ぼすことが確実なわけです。

日本の歴史上、これほどの重要な局面はなかったと思いますが、なんと「見回り」で目を離したすきに燃料切れを起こしてメルトダウンの危険を引き起こしたというわけです。


この「うっかりミス」のつけを全国民が何世代にもわたって背負い続けなければならないリスクが高まっています。

今後の推移を見守るしかないのが残念です。



(浅沼 宏和)

2011年3月15日火曜日

◇東京電力と社会的責任①

故意であろうとなかろうと、自らが社会に与える影響については責任がある。


ドラッカーの言葉です。

ドラッカーは企業は社会から生かされている存在であり、したがって社会に与えた影響については逃げ隠れできないことを指摘しました。

もっともはやくCSR(企業の社会的責任)についての提言を行った人物の一人といえます。

昨日のブログで東京電力のコンプライアンス違反事件について言及しました。

1日経過し、福島第一原発の事態が急展開しました。

時間の経過に伴って東京電力が頻繁に記者会見を開きましたが、それをご覧になった方は例外なくイライラされたことと思います。

長々とした会見の中で最も知りたい情報について全く触れられないからです。

これはひとえに形式主義のコンプライアンス対応の問題といえると思います。


以前、私が雑誌のデータベース向けのビジネスレポートとして書いたコンプライアンスについての文章を抜き書きします。


企業不祥事の原因は多様ですが、類型化すると利益至上主義、保身・私利私欲、反社会勢力との癒着、事なかれ主義・隠ぺい体質、拙劣な危機対応などがあげられます。

そして、それらはさらに

① 人の心にかかわるもの

②  会社の仕組みにかかわるもの

の二つに大きくわけることができます。

まず①は「経営風土」と呼ばれるものがそれに当たります。

それは各種規定等に明文化されているものではなく、各人の言動やちょっとしたコミュニケーションの総体等によって形作られるものです。‥‥



今回の東京電力の対応は、「事なかれ主義・隠ぺい体質、拙劣な事後対応」がはっきりと見え隠れしています。

あまりにわかりやすいため、国民の怒りを買っているのであると思います。

怒りの本質にあるのは、広報担当者に見え隠れる「当事者意識の欠如」です。

今回の問題は、最悪の場合には国家の崩壊を招くほどの状況です。

それにもかかわらず、ペーパーを朗読することに終始する社員たちにはなんら責任の重さを一身に背負っている雰囲気を感じさせません。

ここが最大の問題点といえると思います。

(つづく)





(浅沼 宏和)

2011年3月14日月曜日

◇大震災で再浮上する東京電力のコンプライアンス問題

3月11日に東北地方を中心に大震災が発生しました。被災された方々には謹んでお見舞い申し上げたいと思います。

危険な状態にある福島第一原発
ところで3月14日の時点で、東京電力の福島第一、第二原子力発電所が危機的な状況となっており、今後の推移が注目されています。

この時点で時期尚早かも知れませんが、東京電力のスタンスについて若干付言しておきたいと思います。


東京電力は2002年にコンプライアンス違反事件を起こしています。

今、問題となっている福島の二つの原発のほかに新潟の柏崎の原発も含めた3か所で、事故隠しを行ってきたことが発覚したという事件です。

当時、私は内部統制について本腰を入れて研究していた時期で、東京電力の対応について非常に注目しながら見守っていました。

今では当たり前になっていますが、コンプライアンス違反事件の適切な対応の基本は情報開示と事後の完璧な予防措置の実施です。

事故隠しの件はかなり悪質でした。しかし、その後日経新聞等で全面広告を打って発表された内部統制及びコンプライアンスの仕組みは見事なものでした。

教科書にしてもいいぐらいのないようでしたが、私は事故隠しの悪質さと見比べて「本当にこれができるのか?」と疑問に思っていました。

この件についてはその後、あちこちでCSRについて発表や講演をする機会を通じて述べてきたところです。

そこで、今回の震災に関して原発の情報開示、首都圏における節電についての広報のやり方が稚拙であることを目の当たりにし、東京電力が本質的に生まれ変わっていなかったのではないかという疑念がわいてきました。

ポイントは企業体質です。


この件につきましては、震災が一段落した時点で、リスクマネジメントの基本とともに改めて検討したいと思っています。


(浅沼 宏和)

2011年3月11日金曜日

告知-出版企画と成果をあげる5つの能力

現在、二つの出版社からそれぞれドラッカーに関するビジネス書の企画が進んでいます。

私もドラッカーについてだいぶ全体像がつかめてきていますので、この時期に立て続けに書くことには意味があると考えています。「実際に使える」ということにこだわりたいと思っています。

一つはほぼ決まりで、6月初旬の刊行に向けて動き始めています。もう一つは今月中に編集部と話をすることになっています。

そこで、しばらく出版に向けての内容の検討をブログを通じて行っていきたいと思います。

すでに書き始めているものは、かなり広い読者層を想定しています。ですから、内容についてはエッセンスを絞りぬき、事例や図表を数多く使うことを考えています。

で、編集部の要望で、ビジネスパーソンの日常的な仕事に直接役立つ内容から始まり、チームとしての成果をあげる方法、最終的には会社にとっての成果の上げ方、つまり経営戦略論の基礎にたどりつくという構成です。

ということは、ドラッカーの成果をあげる5つの能力が前半に来ることになります。

5つの能力とは

1、時間をまとめて使う
2、貢献を意識する
3、強みを生かす
4、集中する
5、意思決定する

というものでした。

この5つについては昨秋、かなり回数をとって検討しましたが、ここでさらに5~10回程度にわけて再検討を行いたいと思います。

素材としては『経営者の条件』の翻訳書の217~224ページを使い、私が気がついたことを付け加える方式で行います。


(浅沼 宏和)

計画的廃棄と政府機関

政治情勢も厳しいおりですから、立て続けにドラッカーの政治的説明を取り上げましょう。

ドラッカーは成果をあげるためには集中が必要であると言っています。

希少な資源を昨日の活動から引き上げて、明日の機会に充てなければならない言っています。

そこで生産的ではなくなった過去のものを捨てる必要性を強調しています。


完全な失敗を捨てることは簡単ですが、昨日は成功していたけれど今では非生産的となったものは捨てずらいといいます。

さらに、本来うまくいくはずなのにいつまでも成果の出ない仕事も危険であると言っています。

このような状況を放置すると組織は最も貴重な資源である有能な人たちの能力を浪費してしまうといいます。


あらゆる組織がこの種の活動を抱えたままとなる。特に政府機関が著しい。

政府の計画や活動も他の組織と同じように急速に古くなる。

だが、政府機関においては、それらは永遠の存在ともみなされるばかりでなく、政省令によって構造化され、議会の族議員の結びついて既得権化していく。


50年前の記述ですが、今の日本の政治の説明と言われても疑う人はいないでしょう。

さらにドラッカーはこう続けます。


今日、政府のあらゆる法令、機関、プログラムが成果と貢献についての第三者機関による評価に基づいて延長される場合を除き、すべて臨時のものであり、一定の期間、たとえば10年を経た後には自動的に消滅させるという成果本位の新たな行政原則が必要とされている。


この提言は一考の価値があると思いますがいかがでしょうか?



(浅沼 宏和)

2011年3月10日木曜日

TPPと農業とドラッカー

TPP参加するのか否かは悩ましい問題です。

TPPはかなり徹底した自由貿易の枠組みですので、これに加盟した場合、日本の農業・漁業が壊滅するかもしれないとい言うリスクがあるとの批判が行われています。

こうした問題についてドラッカーが1966年の「経営者の条件」で次のように述べています。

ドラッカーは貢献に注目することの重要さを指摘したうえで、成果として直接の成果、価値への取り組み、人材育成の3つをあげています。

そのうえで、それぞれの目的を明確にしないと成果をあげられないと述べています。

ダメな事例として当時のアメリカの農業政策をあげていて、それがTPPの話にそっくり当てはまるようです。


長年の間、アメリカ農務省は、根本的に相いれない二つの価値観に身を裂かれてきた。

その一つが農業の生産性の向上であり、もう一つが国の柱としての農家の維持だった。

前者が目指すものは大規模事業としての産業的農業だった。

後者の目指すものは保護された田園的な農家だった。

少なくともごく最近まで、アメリカの農政はこれら二つの価値観の間で揺れ動いてきた。その結果残ったものは、毎年の膨大な支出だけだった。


これが50年以上前のドラッカーの指摘です。いま読み返してもそのまま日本の国政に当てはまっています。驚くほどにです。

これは、ようするに目的を決めずにのらりくらりと議論していること自体がムダなわけです。

農家保護か生産的な産業構造を選ぶかは二者択一で間を取るという判断はないということなのです。

ドラッカーの本を読むとやるべきことを選ぶことの重要性がよくわかります。


ドラッカー理論が古びないという例、特に政治的な事例についてはこの経営者の条件に相当含まれています。

私は『経営者の条件』は政治家の必読書にすべきと思っています。


(浅沼 宏和)

2011年3月9日水曜日

脱・トヨタ生産方式-現代の方向転換

すでにご覧の方も多いかと思いますが、YaHoo!ニュースによると、現代自動車がトヨタ生産方式を手放すという記事が取り上げられていました。

現代の洗練されたデザインの車
記事の書き手は井上久男氏です。     

これは、日本の生んだ、最も強力なビジネスモデルについての話ですから見逃すわけにはいかないと思います。


記事の骨子は以下の通りです。


・最近、現代自動車が躍進しているが、その秘密はトヨタ生産方式(TPS)を捨てて、自前の方式を編み出したことにあると思われる。


・現代は90年代まではトヨタに追いつくことが目標で、「カイゼン活動」などを積極的に導入した。


・00年以降、大きく方針転換した。理由は雇用慣行・労使関係など基本条件がトヨタと違うため、同じ手法を導入しても現場が混乱するだけで、かえって製品に不具合が生じる傾向にあった。




・TPSでは「カンバン」などの方法論が注目される。これは長期雇用・労使協調・徹底した人材育成による動機づけなどトヨタの雇用慣行という「基本ソフト」の上に成り立つシステム。


・チームワークを大切にし、終業後にサービス残業で居残ってまでも同じ班で話し合いをしながら生産性向上のための提案活動を行う。こうしたプロセスで、作業者は熟練度を高め、同時に複数作業をこなせる多能工となる。




・現代では労使対立によるストが発生する。その他、各種労働条件がTPSが機能しにくい状況を作り出している。




・多数の企業がTPSの導入に失敗した理由について90年代後半にハーバード大のケント・ボウエン教授による論文があり、注目を集めた。
トヨタのTPSが他社で難しい理由は、長年トヨタがつちかってきた遺伝子(DNA)の有無の違いであるという内容であった。


・日本でもTPSの導入失敗例は多い。日本郵政ではTPSの導入が現場の混乱を招き、それが原因で遅配等のトラブルが続出したとされる。
その他、TPSのコンサルティングに多額の費用をかけて成果が得られない企業は多い。




・現代の新しい生産方式では、作業者にカイゼン活動を極力させないことにしている。
トヨタでは製造工程で品質を作りこむため、作業者が知恵を出し合いカイゼンする。
現代では作業者は指示された仕事をこなすだけで良い。その代わりカイゼン担当者を置き、そこにエリートを投入する。




・生産現場ではリモートコントロール方式を導入。ビデオカメラを大量に設置し、不具合があるとカイゼン担当者がリプレイして作業をチェック。問題の原因究明を行う。


・さらに常識と異なり、工程数を増やしてラインの長さを長くした。おかげで一工程当たりの仕事は単純化され、1人の作業者は複雑な仕事をしなくて済むようにした。
現代の1ラインの工程数は、日本のメーカーの二倍の300近くある。


こうした独自の生産スタイルによって現場の混乱が減り、品質が飛躍的に向上したといわれています。
経営について自分の頭で考え、自分の会社に合うように編み出していくことは経営の基本。「コンサルに丸投げ」で良い結果が出ると考えることが根本的な間違いということのようです。


これはかなり深刻な指摘で、現実にトヨタ生産方式でうまくいっている企業の方が少ないのではないかと思います。

経営戦略家のマイケル・ポーターは、活動システム図を使って、強いビジネスモデルにはそれを支える複雑な要因の総合関係があり、一朝一夕ではまねできないということを述べています。

まさにその実証例と言えると思います。

ちなみにトヨタはデザインでは現代に負けているという認識があるそうで、だいぶアセりをかんじているとのことでした。



(浅沼 宏和)

2011年3月8日火曜日

閑話休題-グル―ポンのコンプライアンス対応

共同割引のクーポン販売で有名なグル―ポンは米国企業です。

今年の正月におせち料理の販売でトラブルを起こし、ニュースで大々的に取り上げられたことは記憶に新しいものです。

その米グル―ポンのCEOメイソン氏が日経ビジネス2011.3.17の「敗軍の将、兵を語る」のコーナーで謝罪を行っていました。

タイトルは、そのものずばりで  『 おせち届かず、すみません 』 です。




その骨子は次のようなものです。

・おせち料理のトラブルの件は全面的にグル―ポンの責任である。本来、CEOである自分自身が個別にお客様を訪問して謝罪すべきものであるが、物理的に無理であったため誠心誠意の謝罪の気持ちをビデオレターに託して伝えてある。


・お正月やおせち料理がいかに日本文化に根付き、人々がそれを大切にしているかについては十分に理解している。それだけに大変申し訳なく思っている。


・今回の失敗の原因は、おせちの販売数の設定と内容・品質の管理が甘かったことにある。二度とこうした問題を起こさないように早急に運営を改めていく。


・日本では、米国に比べておせち料理のように時間に敏感な取引が多いことに会社がまだ慣れていなかった。時間に敏感なビジネスになれる必要を感じている。


・今回のミスに対しては謝ることしかできない。「グル―ポンの約束」は問題が起きたり、ひどい体験をした場合にはきちんと返金するというもの。気分を少しでもよくしてもらうために対応したい。


といった趣旨の内容で、メイソン氏の表明内容は、起きてしまった失敗に対する責任の取り方としては妥当なものであると思います。

日本の有名企業の多くが事故の事後対応において責任を認めない態度をとったために致命的なダメージを負うケースが多々ありました。

それに比べると米国企業のコンプライアンス対応は洗練されているという感じです。


*(このサイトでメイソン氏の謝罪の映像がみられます。)⇒http://info.groupon.jp/topics/20110117-515.html



社会的責任という場合、法的責任だけではなくそれ以上の倫理的責任があるということは少しずつ認識が広がっているようです。

しかし、こうした事例を見るごとに気を引き締めることはすべての企業にとって必要であると思います。

失敗から学び、二度と同じ過ちを起こさないように全力を尽くす 

ということを約束するというCEOの締めくくりの言葉は、ドラッカーの「真摯さ」「最善を尽くす」という言葉の定義そのものであると感じました。

ドラッカーは、完璧な仕事は約束できない、しかし、最善を尽くすことは約束できる と述べています。

グルーポンがこのコミットメントにどう取り組んでいくか、見ていきたいと思います。




(浅沼 宏和)

2011年3月7日月曜日

閑話休題-石田梅岩の『都鄙問答』(下)

昨日に引き続き、石田梅岩の都鄙問答に収録されているエピソードです。



ある屋敷に出入りしている絹商人が2人いました。

新しく出入りを望む商人が現われ、ためしに絹の見積もりをさせてみたところ、かなり安い金額で見積もりを出してきました。

それを見たお屋敷の担当者は非常に怒り、2人の出入り商人を呼びつけて、「お前たちの見積もりは法外な値段であった。なぜか説明せよ。」と問い詰めました。

1人目の商人は

初めて出入りする者は損をしてでも取引をしようとします。しかし、それを続けることはできませんから次第に値段をあげていくものなのです

と答えました。



もう1人の商人は

贅沢を好んだ愚かな父が多額の借金を残して逝ったため、運転資金が思うように工面できません。

そのため、仕入値も相手側の言うことを飲まざるを得なくなってしまいました。

高価な品を納めることになってしまったことは誠に申し訳ございませんでした。
家財を売り払い、借金を軽くしますので、その折には改めて取引を続けていただきたいのです。


屋敷の担当者は両者の答えを聞き、「損して得取るのは商人の常識」といった商人を出入り禁止にしました。

屋敷の担当者は、身を粉にして働き、親の借金を返済しようとしている姿が正直で神妙であると考え、資金も援助して正直者の商人を育ててやろうという話になったのです。



商道徳という者は商人だけのものではなく買う側の視点もあるのだということを感じさせるエピソードです。



(浅沼 宏和)

2011年3月6日日曜日

閑話休題-石田梅岩の「都鄙問答」(上)

CSR(社会的責任)の議論が活発化する中で、江戸時代に町人のための学問、石門心学を広めた石田梅岩の著作が注目されています。それが都鄙問答です。

この著作では商売の正しい道、いわば商人道についてわかりやすく解説してくれています。

いつか整理してブログに書きたいと思っていますが、私が現代語訳して少しご紹介します。



(弟子)  

商人にはどん欲なものが多く、彼らは常に利益をむさぼります。

商人に無欲であることを教えようとするのは、猫にかつお節の番をさせるのと同じです。

彼らに学問を教えるのはムダなことです。

それでも教えようとする先生は間違っているのではないですか?


(梅岩)

『商人の道』を知らない者は、利益をむさぼったあげく家を滅ぼしてしまいます。

商人の道を知れば、欲得の心ではなく、仁の心をもって仕事に励みますし、また道理にかなっているゆえに商売も繁盛します。

これが学問の徳というものです。


(弟子)

では、売るときに利益を得ないで元の値段のまま売ることを教えるのですか?

利益を取らないことを学びながらも、実際には陰で利益を得るならば、本当の教えとは言えず、偽りの教えを強制することになるのではないでしょうか?

なぜならもともと利益を取らないことを強いているわけですから、つじつまがあわなくなるのではないでしょうか?

商人であって利欲の心がないという話は聞いたことがありません。


(梅岩)

決して偽りの教えではありません。

君主に仕える者が数多くいますが、俸禄(給料)を受け取らないで仕えている者がいるでしょうか?


(弟子)

それはありえないことです。

古来から聖人といえども俸禄を受けないことは礼にかなっていないとされています。

これは受け取ることが道であるから受け取っているわけですから欲得の心とは言えません。


(梅岩)

利益を得るのが商人の道です。

元値で売ることを道という話は聞きません。

利益を「欲」というのならば、孔子は子貢をどうして弟子にしたのでしょうか?

子貢は孔子の教えを商売に用いました。子貢も給金がなければはげむことができないでしょう。

商人の利益は武士の俸禄と同じです。商人に利益がないということは、武士が俸禄なしに主君に仕えることと同じなのです。





この問答には石門心学の基本的な考え方がよく表れていると思います。


商人(ビジネスパーソン)が利益をあげるのは当然なのです。ただ、その利益を得る方法は倫理的でなければならないということです。


私はドラッカーのマネジメントというものが、社会にプラスをもたらすことで利益をあげるという考えが底辺にあると思っています。


せっかくCSRについての認知度も高まってきたことですし、石門心学も再評価されてもよいのではないかと思います。


(浅沼 宏和)

2011年3月5日土曜日

浅沼式のドラッカー戦略マップ

私は根来教授の差別化システム図を応用してドラッカーのマネジメント論の図式化を試みています。

バランススコアカードの戦略マップのドラッカー版といった意味で、ドラッカー戦略マップと名付けていますが、提起したのが私なので「浅沼式」と一応名づけています。

先に、ドラッカーの8つの目標の説明をしましたが、あの目標を導き出す一歩手前の図式化という考えです。

構図は以下のようになります。

2011年3月4日金曜日

根来教授の差別化システム図

早稲田大学の根来龍之教授は、マイケル・ポーターの活動システム図とバランススコアカードの戦略マップを融合させて差別化システム図という概念を提起しました。

これはとてもわかりやすいコンセプトです。



ちょっとボケて見にくくなってしまっていますが、昨日の活動システム図と比べると3層構造になっていることで、論理が見えやすくなっています。


差別化という成果を活動が支えており、活動は資源の強みによって支えられているという図式です。




この3層構造の関係性の強さが戦略の強さにつながるというのが根来教授の考えです。

この図式の良いところは、シンプルかつ実用的であるということです。

複雑さがないため比較的小さい会社でも使えるわけです。


この図式を発展させるとドラッカーの経営戦略論を図式化できるというのが私の考えです。



(浅沼 宏和)


2011年3月3日木曜日

マイケル・ポーターの活動システム図

競争戦略論で有名なマイケル・ポーターの主要な概念に活動システムというものがあります。


成功している企業には他社には容易にマネできない活動の複雑な組み合わせがあるという仮定によって、その重要な要因を図式化するというものです。

アメリカのサウスウェスト航空の事例を使って次のように表現されています。


根来龍之(2004)の論文をもとに筆者作成



この図が表現しているのは、サウスウェスト航空が「格安で便利な航空会社」であるというコンセプトを支える戦略要素の関係です。


なんだかごちゃごちゃしているようにも見えますが、このごちゃごちゃ感がこの会社特有の強みになるというのがポーターの主張です。

ごちゃごちゃしているほど「簡単にはマネされないぞ」ということになるわけです。


早稲田大学の根来教授はこの活動システム図とバランススコアカードの戦略マップを総合して新しいアイディアを生み出したわけです。

明日は、根来教授の提案を紹介します。


(浅沼 宏和)

2011年3月1日火曜日

マネジメント・スコアカード

月末に論文の締め切りがあったため、更新が滞ってしまいました。


今回はドラッカーの経営戦略論を使って、バランス・スコアカードの戦略マップの改定案を出そうという論文でしたが、時間ぎりぎりで滑り込みセーフという状況でした。

そのため文章がごつごつしてしまいました。


ところで、せっかく論文を書きましたので、今回考えたこと、調べたことについてまとめておこうと思います。

まずはマネジメント・スコアカードです。



実は、このマネジメント・スコアカードというのはドラッカー学会の会員による研究部会が名づけたもので、そのネタ元は、ドラッカーの8つの目標です。

それは以下のようなものです。


1、マーケティング
2、イノベーション
3、生産性
4、人的資源
5、マネジメント能力
6、資金と資源
7、社会的責任
8、必要となる利益


この8つの目標は1954年の『現代の経営』に書かれているのですが、財務的な目標以外のものを財務的目標(利益)と同列に並べるという発想は斬新であったと思われます。

この8つの目標の概念を提起したことで、ドラッカーは「バランススコアカードのきっかけを作った人」と考えられたりする場合もあります。


この8つの目標をスコアカードに落とし込もうとする研究会の取り組みは報告書にまとめられており、ドラッカー学会のHPで見ることができます。


私は、バランス・スコアカードで言う戦略マップのようなものがドラッカー経営にはないと考えまして、独自のマップにまとめています。

その成果は昨年9月に日本会計研究学会の全国大会で発表したのですが、その後実務で使用してみたところ、意外と使い勝手がよく、自信を深めたので論文にまとめようと思い立ったわけです。


しばらく、今回の論文の構成を段階的に説明してみたいと思います。



(つづく)



(浅沼宏和)