ドラッカーはコミュニケーションについて、知覚であり、期待であり、要求であるが情報ではないという有名な定義を行っています。
東電の情報開示にイライラ感が募る理由についてドラッカーに基づいて検討してみます。
1、コミュニケーションは知覚である
コミュニケーションは受けての知覚能力の範囲内でしか受けとめられないということです。東電は国民に向けての記者会見において原子力専門家に話すように語りかけました。
ドラッカーは、ソクラテスの「大工と話すときは大工の言葉を使え」という話をよく引用します。
東電の場合、「市民に話すときは市民の言葉を使え」ということであるとおもわれます。
2、コミュニケーションは期待である
受けては期待しているものだけを聞きます。今回の場合、「要するに安全なのか?」「いったい何をしてくれているのか?」ということです。
長々とした会見を通じて、この期待が満たされていないため、聞き手は腹を立てるわけです。
3、コミュニケーションは要求である
コミュニケーションは受け手に何かを要求します。つまりコミュニケーションの目的ということが問題となります。
この場合、「安心してもらいたい」ということであるはずです。さもなければ「危険であるから、かくかくしかじかのように行動してもらいたい」ということです。
東電の記者会見には、聞き手に何かを要求する話としてどのような組み立てにするべきかという視点がありません。
だから、いったい何を言いたいのかがわからない会見になってしまうわけです。
4、コミュニケーションは情報でない
ドラッカーは情報とコミュニケーションは相互に依存関係にあると述べています。
しかし、情報は論理の対象であるけれどコミュニケーションは知覚の対象という違いがあります。
情報は記号にすぎないため、受け手が記号の意味がわからなければ受け取られることはありません。
ドラッカーの次の言葉が印象的です。
たとえ情報が多くなっても、その質が良くなっても、コミュニケーションにかかわる問題は解決されない。コミュニケーション・ギャップも解消されない。
情報が多くなるほど、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になる。
情報が多くなるほど、コミュニケーション・ギャップは縮小するどころか、かえって拡大する。
つまり、情報の価値は情報量と反比例するということです。情報量が多い時ほどコミュニケーションが大切ということです。
東電の情報開示は大量の事実の羅列はあるがそれによって情報価値を低下させてしまっています。
(浅沼 宏和)