京に上った信長は、突如、越前の朝倉氏を攻めます。しかし、背後にいた浅井氏の裏切りに会い、散々な負け戦となりました。
その後、改めて浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで撃破しました。36歳の時です。
そこから信長の苦難の戦いが始まります。浅井・朝倉の他、比叡山、石山本願寺、武田信玄、摂津の三好三人衆によって包囲網が形成されました。
さて、信長の経済感覚についてのエピソードです。
後の長篠の戦いが有名ですが、すでに姉川の戦いのころには信長は鉄砲を1500丁ほど所有しており、有名な3段撃ちも行っていたようです。
鉄砲隊を3つのグループに分けて次々と撃たせるので、戦場では常に500発の弾丸が敵に注ぎこまれるわけです。
津本氏は慶長年間の鉄砲の値段が1丁9石であったことから、生産力の低かった姉川の戦いのころの値段はその倍の18石ぐらいであったと推定しています。
そして、足軽一人の年収は2石弱でしたから、鉄砲1丁は足軽10人分の年収に相当すると述べています。
つまり現代風に言うなら鉄砲は高級外車とほぼ同じ値段であるというわけです。鉄砲の効果に疑問を持つ武将が多かった中で、それを1500丁も購入する信長の着眼は鋭かったと言えるでしょう。
1500丁の鉄砲の値段はだいたい3万石弱ぐらいです。信長が京に上ったときの直接支配地が尾張(名古屋市周辺)と美濃(岐阜県)であるとすると石高約110万国です。そのうち税収50%として、さらに家臣に3分の2を配分しているとすると、信長自身の収入は20万石弱です。
おそらく他の商業に対する課税等が莫大な金額になると思いますが、それを考慮しても3万石も鉄砲に費やす大名は他にいないでしょう。
新しい戦術を生み出すことへの不退転の決意が表れていると思います。「リスクをとっている」ということですね。