桶狭間で戦いに勝った時期の信長は、ある意味政治的・軍事的に比較的に安定している時期であったといえると思います。
しかし、そこに安住することなく強国の美濃(岐阜県)・斎藤氏との戦争に突入していきます。
信長が奪い取った美濃の岐阜城(稲葉山城)⇒
企業で言うならば、中堅企業になり経営の安定性はでてきたものの、隣町の同規模のライバル会社との競争を決断したといったところでしょうか。
以下、その頃のマネジメント・エピソードです。
・木下藤吉郎、滝川一益のような身分の低い人間や他国出身者を登用し始めた。
・美濃の征服に不退転の姿勢を示すため、国境沿いの山である小牧山に本拠地を移した。
・隣国の三河の領主である徳川家康と攻守同盟を結び、東からの脅威を取り除いた。
・尾張一国をほぼ手中に収めたころ、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせ、美濃を挟撃する体制を作った。
・美濃の有力豪族を味方に引き入れ(調略)、本拠地の稲葉山城(岐阜城)を孤立させた。
・美濃攻略後、加納市場を楽市・楽座(自由市場)とし、商業の繁栄によって自身の政権基盤を安定させようとした。
・最大の強敵・武田信玄との間に当面戦争を起こさないような外交手腕を発揮した。
・京への通路である伊勢地方の平定のため、軍事・外交両面作戦を実行した。息子・信孝を神戸氏の養子とした。
・越前に亡命していた足利義昭を岐阜に招き、彼を報じて大義名分とし、大軍を率いて京に上った。
・信長は将軍となった義昭から堺、大津、草津に代官をおく許しを得た。いずれも交通の要衝であり、かつ商業地域であった。領地支配より商業支配を優先した。
・信長は近畿地方の支配地の関所を撤廃した。広範囲の商品流通圏を成立させる第一歩であった。
・信長に反抗的であった堺の町衆を屈服させ、非常に多額の軍用金を拠出させた。
・貨幣経済を浸透させるため、粗悪な貨幣を排除し、かつ米などによる物々交換を厳しく禁止した。違反者を出した町は全員斬られるという重刑であったため急速に政策が浸透した。
・将軍義昭を傀儡として扱う信長の態度により、将軍との関係が悪化した。
・南蛮人との接触により、西欧文化を吸収した。
尾張統一後の信長は、単に軍事的に優れた作戦を実行する以上に外交能力によって大軍を率いることができるようになっています。
また、そのために巨額の軍事費が必要となることから、資金調達について強く意識するようになっています。
こうして信長は競争に勝ち抜き中堅企業から大企業へと駆け上がったわけです。
マネジメントの悩みも運転資金の不足、新市場獲得、新製品開発などを大きなスケールで同時にこなさなければならない経営者といった感じになっています。
ベンチャー起業家として華々しくデビューしたみたいですね。
ヒト(人的資源)の不足は従来の門閥を打破し能力主義とすることや外交関係によって解消し、資金の不足は商業勢力との協調政策・恫喝政策によって乗り切ろうとしてるわけです。
他方、政治家・行政家としての活動も活発化しています。彼は美濃征服ののちに「天下布武」を表明し、はっきりと天下統一を志向するようになりますが、京に上ってのちは次々と具体的政策として実行しています。
(つづく)