2010年4月6日火曜日

織田信長のマネジメント力-桶狭間の前後

司馬遼太郎の本で信長が主人公であるのは「国取り物語」です。

補足的な小説としては「新書 太閤記」(豊臣秀吉)、「功名が辻」(山内一豊)、「播磨灘物語」(黒田官兵衛)、「覇王の家」(徳川家康)などがあります。

しかし、いずれも信長の尾張一国の統一戦についてはあまり詳しく書かれていません。


桶狭間以前の信長は尾張国内に同等規模の豪族・親族がいくつもあり、尾張における自身のリーダーシップ確立までについても相当苦労を重ねています。

この時期の信長は、個人事業的な小規模企業を継承し、地域内のライバルとの競争に悪戦苦闘する中小企業の経営者に似ているように思います。



信長の父・織田信秀は、尾張の守護大名・斯波氏の家来で守護代の織田氏のそのまた家来という小豪族でした。
突出した器量によって尾張の半分の支配力を持つようになっていたわけです。

しかし、信秀は信長がわずか17歳の時に急死してしまいましたので、以後、信長は10年にわたり尾張統一戦を戦い続けたわけです。
 

その間、守護代の織田氏との抗争、美濃の斎藤氏との戦い、弟・信行との権力闘争、柴田・林・佐久間ら重臣の謀反という修羅場を全て乗り切り、父と同様の尾張半国の支配権をやっとつかんだのがほぼ25歳の時です。
 ⇒尾張統一時の居城・清州城跡

争いがごく小規模なので、一般にはあまり知られていない時期ですが、その直面する問題の困難さは相当なものがあります。

現代でいえば高校生から大学院卒ぐらいまでの年頃にこの難局を乗り切ったのですから、その経営能力は抜群です。

そして27歳の時に桶狭間で今川義元を破ったわけです。

この間に、戦場での勇気、合理的戦法、外交交渉の巧みさ、経済観念の高さ、強烈なリーダーシップのいずれについてもなみなみならない能力を発揮しています。また、その能力は一貫して向上し続けています。

いくつかエピソードをあげます。


・今川の最前線の砦を守る武将について、偽情報を流して今川義元に信じさせて処刑させた。

・2倍の兵力を持つ今川方の武将と正面から戦って打ち破り、近隣の豪族たちを従わせた。

・商業地域の津島の商人たちから莫大な軍用金を徴収する代わりに各種特権を与えた。

・毎年、梅雨時に氾濫を繰り返す木曽川の治水のために強力な統一政権を求める農民層の支持を獲得した。

・家臣ではない豪族たち(蜂須賀小六等の川並衆)に知行の代わりに関所の自由通行権を与えて協力させた。

・3万の今川勢に対してわずか5千の軍勢で勝つため、最前線の砦をおとりとして使い犠牲にした。その代わり今川の軍勢の戦線を伸び切らせ、義元の本隊を孤立させて奇襲可能な状況を作った。

・桶狭間の戦いで勝利した信長は最大の功労者を義元を打ち取った武将ではなく、義元の本隊の位置情報をつかんだ武将とし、莫大な褒美を与えた。


このようにかなり若いころから信長は政治・経済・商業・軍事・情報管理について高度な判断能力を示していました。

(つづく)