リスクや社会的責任について幅広く検討している中で必要があり、「公共性の構造転換」「コミュニケーション的行為の理論」で有名な現代哲学者のユルゲン・ハーバーマスの思想の簡単な整理をしています。
ハーバーマスは20年ぐらい前に読んでいたのですが、あらためて読んでみると「なんだ、ドラッカーのコミュニケーション論と似てるじゃないか」と思いました。
そこで両者を簡単に比較してみましょう。
ハーバーマスによると、コミュニケーション(=相互主義的コミュニケーション)とは、現実の人間が言語(=言語的コミュニケーション)を通じてお互いに意見や感情を表現するものである。その表現を聞き手が了解することでお互いの『合意』が強制によることなく成立する。
またコミュニケーションの不一致はや対立(=ディスコミュニケーション)を解決するためには「真理性」「規範適合性」「誠実性」という3つの条件を満たすことが必要。
「真理性」とは発言が事実であるということ、「規範適合性」とは言動が社会的規範に合致していること(常識的な言動であること)、「誠実性」とは発言者の心の中に裏表がないこと。
要するにコミュニケーションが成立するためには内容が正しいばかりではなく、その手段、スタイル、心の状態なども適切でなければならないということ。人はこうした適切なコミュニケーションを通じた了解を目指して行かなければならない。
また、ハーバーマスは相互主義的なコミュニケーションが成立する場を「公共圏」と位置づける。公共圏では多種多様な意見が集約され、それらの意見がネットワークとして広がっていく中でより広い公共圏へと発展する。
という感じで、著書の分厚さに比べて単純すぎて恐縮ですが、おおまかにそんな感じの話だと思います。
一方、ドラッカーは「コミュニケーションとは知覚であり、期待であり、要求であり、情報ではない」としています。特にコミュニケーションは受け手が成立させるものであり、上からの命令では受け止めてもらえない。
各人の目標を本人に語らせて、それについて上司が感じるギャップを相互に話し合うことがコミュニケーションの土台となる。そしてそのギャップを部下が認識することでさらに大きな成果への貢献を目指してもらい、それがひいては各人の自己実現へとつながる。これが目標管理のあるべき姿という感じで語られているかと思います。
ドラッカーのコミュニケーションについて真理性、規範適合性、誠実性の3条件を当てはめてみると結構適合するような気がしました。
(浅沼 宏和)